薔薇の城と茨の鳥籠
「 ──お嬢様、その薬品は危険でございます!」
アウステル城の地下、その一角で今日も呆れたような声が響く。
「もー!わたくしが森で摘んできた薬草やら石やら使ってるんだからちょっとぐらい触らせて頂戴よー、けち!」
そう駄々を捏ねているのはアウステルが第一貴女が一人、マイアス・ステラ・アウステル。生粋のお嬢様である。質の良いドレスの大胆な胸元を飾るのは、アウステル家の始祖〈英雄ロキ〉から受け継がれるネックレスの大きなエメラルドだった。
「左様でございましたな。では、私の言う通りに、なさいましたら、お触れになっても良しとしましょう。」
この研究室の持ち主である若き錬金術師、アルウィン・K・ナリレウスはそう釘を刺した。
「やったー♪わたしは透明な小瓶に入ったあなたのキラキラしたポーションを眺めるのが大好きなの。これなんか、こんなじめったい部屋のランプ明かりなんかより、太陽にかざしてみたらもっと素晴らしく光り輝きそうじゃなくって?」
マイアスは赤い液体の入った小瓶を手に取った。彼女の我儘でこの部屋に引き入れられたふかふかのソファに身を預けて、少女は宝石のように輝く液体に見入っている。
「いやぁ、私はどちらかというとこのランプの灯りが好きでして…。しかし、そうですな。偶には太陽を浴びさせねばカビが生えてしまうやもしれません。お嬢様は私めが思いつかぬアイデアを良く仰ってくださいますなぁ。フフフ。」
アルウィンはそう冗談っぽく微笑して、楽しそうに目を細めた。
「 ……そういえば、あなたが前言ってた、太陽に当ててはいけないポーションって、どれだったかしら?確か綺麗で、ちいさくて……あら?もしかしてコレだったかしら?」
「……」
アルウィンがにこにこと押し黙った一瞬の沈黙の後、少女は驚いたようにパッと口に手を当てた。
「……あぶないあぶない、また私ったらやらかしちゃうところだったわ!あなたの昔のご忠告のおかげで──って、気づいてて黙ってたわね!?ひどいわー!また髪の毛チリチリになるところだったじゃない……ちょ、そんなに笑わなくてもいいのに!ぷう!」
と少女は頰を膨らませたが、そうは言っても戯れであり、本気で怒ってはいないことは明白である。
「いやはや。お嬢様は相変わらずですね。しかし私の言ったことを覚えいてくれて嬉しゅうございます」
それを分かっているアルウィンは楽しそうに頬を緩める。が、その後すっとその笑みが消えて、勉強を教える時の気難しい表情になったのを少女は鋭く察知した。
「──陽の華。
太陽の光で光と熱を発する。その量次第では、大きな爆発を生む……お祭りで俗に言う花火の材料になるものですな。夜は太陽は無いので、代わりの太陽の魔法と併用します。大昔は戦争にも使われたと聞きますが……。」
くどくどと始まった歴史講義に少女は苦い顔をしながら、研究室の棚に目を逃す。
「…あなたの言葉は一言一句忘れなんて──な、なんでもない!
こんなにキレイなものを人を傷つけるために使うなんて野蛮だことね。」
そっと呟いた言葉は途中で切れて棚の埃に埋もれていったが、後半の憂いを帯びた響きだけはアルウィンの長い耳に届き、ハーフエルフであるアルウィンはそっと目を伏せた。
…のだが、
「『──ああだが、これだけ純度が高ければちょいと月蝶の鱗粉を2.5匙加えてサ、SIGELS ALLOWでも造ってみたらいいじゃないか』」
そんな言の葉が投げかけられてバッと顔を上げざるをえなかった。
「……あら?わたくしは今なんて?」
それを発したはずの少女は目を丸くしているだけである。“SIGELS ALLOW”──山一つ穿ったとされる失われた古代兵器の名前をこの少女は知るはずがない──そのことに気づいてしまったアルウィンの背中にぞくりとしたものが流れた。
「 お嬢……さま?」
今のは一体、と考えていると少女が不思議そうに首を傾げる。なんとなく言ってはいけないような気がして、アルウィンは話題を変えて誤魔化した。
「そう、ですね。古代文明が栄えた頃、今よりもずっと高度な技術があったと言われています。しかし、文明が栄えるにつれ、逆に人々の心は荒んでいったとも…。」
アルウィンは少女をちらと伺ったが、先程の違和感は鳴りを潜めている。
「 皮肉な話よね。より幸福を生み出すために編み出されたはずの技術で、不幸になっていっただなんて。いつだって被害を受けるのは、何の罪もない子供たちなのだわ……」
少女はその痛む純真な胸にそっと手を置く。
「ねえ…あなたなら、そんな世界を変えられるわ。王族貴族、民衆関係なく誰もが笑顔でいれる世界。そうでしょう、アルウィン?」
己を貫くきらきらとした瞳の真っ直ぐさに、アルウィンはつい目を外してしまう。
「私が…ですか?どうでしょう。ハーフエルフである私が、貴女のお父上のおかげでこうして男爵の地位を得られたことは確かに異例で素晴らしいこと。感謝してもしきれません。でも、私はこの貴族社会では孤立している異端者に過ぎないのです…。お父上の力がなければ私は何も…。」
アルウィンはそう言うことで少女の顔が曇るのを感じた。それでも、消え入るような声で事実を紡ぐことしかできない自分自身に苛立ちさえ感じていた。
「私は単なる研究者。遥か昔の遺物を、お父上を始め皆の力になれるようにするのが今の私にできる精一杯のことでございます…」
(……それに、私は私を虐げた者達を赦すことはできずにいる。そんな私が、マイアス。あなたの笑顔のおかげでこうしていられるのですよ)
ハーフエルフというだけで蔑み暴力を振るってきた連中への憎しみ、怒り、アウステル家への感謝、そして希望。錬金の失敗した釜の中のように、アルウィンの心は淀んでいった。
ぐるぐるとかき回される胸を無意識のうちにぎりりと押さえつけていた痣だらけの拳を、小さく温かい手がそっと包む。アルウィンがハッとして顔を上げると、慈愛に満ちた聖母のようなマイアスの微笑みがそこにはあった。
「いいえ、いいえ。父はダイヤの原石を拾い、磨いただけのこと。あなたの偉業は、あなたにしか成し遂げられなかった、あなただけの偉業よ。そんなあなたが私は──」
アルウィンがその太陽のような眩しさに、思わず目を細めた、その時だった。
「──ッ、なに─かしら、急に眠く──」
その手は解けるように離れて、少女の身体がふらりとソファに戻る。手を伸ばそうとした瞬間、胸元のペンダントの宝石が妖しい光を零し、アルウィンはその光景を唖然として眺めていることしかできなかった。
「 『──ふむ』」
少女の唇が人形のように開く。長い睫毛は伏せられたままだった。
「『そろそろ潮時だろう。
ああ君が思ったよりも賢そうで安心したよ。自分の立場をよおく弁えている……このお嬢様の胸焼けするほどキラキラした提案に乗っかって、馬鹿みたいに時間を浪費することも無いようだし。』」
聞いたことのない口調に、アルウィンの中でざわざわと違和感と警戒が膨らんでいく。
「『…どうだい?君ならばあるいは、この時代にもあの破滅兵器─“太陽の黒き雫”を復活させることができるかもしれないねぇ、──我らが愛らしきChangering(チェンジリング)?』」
その瞼がゆっくりと開きこちらを捉えた瞬間、アルウィンは確信した。彼女の身体に居るのは、もはや彼女ではなかった。いつもは丸く無垢なる光を灯している目は三日月のように細く、獣のように細い瞳孔が怪しくこちらを睨んでいる。
小鳥のようにさえずるはずの喉からは猫の唸るようなささやきが響き、口元は悪戯に歪んでいた。
それになにより、彼女自身が“チェンジリング”──取り替え子──等のハーフエルフを蔑むような呼び名を心から忌み嫌い、絶対に口にすることはなかった。
「ッ、お嬢様はそんな言葉は使わない!やはり気のせいではなかったか……何者だ?お嬢様から離れろ!」
アルウィンは手元にあった指揮棒のようなワンドに一瞬だけ目を向けた。しかし少女の身体を傷つける訳にもいかず後ろ手に隠して様子を伺うことしかできない。
「…破滅兵器、太陽の黒き雫だと……?」
ひとまず話を合わせることが先決と判断したアルウィンは、謎の人物が放った言葉の意味を考えて目を見開くこととなった。
「……!まさか…古代文明時代、七つの都市を壊滅させたあのアークレリアの……!?バカな!何故それを!」
「『なんだい、そうピリピリしないでおくれよ!少しからかっただけじゃあないか』」
アルウィンがにじり寄っても、少女の身体を乗っ取っている謎の人物は面白そうに口元を歪ませるだけで、威嚇としての魔力放出も鋭い睨みも露ほども効いていないようだった。
謎の人物は胸元に光るペンダントの前で会議議長のように両手の指を合わせ、余裕そうにソファに腰掛けている。
「『いやね、君だって聖人君子ではないんだろう?塵も残らず消し去りたい諸侯の城の一つや二つあるはずだ。……違うかい?』」
今さっき考えていたことを簡単に見抜かれて、アルウィンは唇を噛んだ。
「……確かに私はそんな徳の高い人間じゃない。けど、相手を破滅させて何になる?そんなことに労力を使うなら、自分と大切なものの為に力を使うさ。」
(…あのペンダントが光っている。つまりあれが、お嬢様に取り憑いている憑依体の正体か。外すことができれば、憑依体は離れるはず…しかし、抵抗はされるだろうし、無理をすればお嬢様が危険だ。時間を稼ごう。憑依の時間は長くは持たないはずだ)
アルウィンはそう画策し、背筋を伸ばして謎の人物に向き直る。
「それよりも、君が誰かを聞かせてくれ。
──私から名乗ろう。
私はアルウィン・K・ナリレウス。アウステル家の連なる一族にして男爵の一人。
そして、古代アークレリア文明を研究せし錬金術師だ。」
謎の人物はそれでも眉をぴくりとも動かさず、はあ、と呆れたようにため息をついた。
「『…甘い。実に甘っちょろい。キュケオーンのように甘い。君ね、我々(いしゅぞく)を害する人間は我々の近くにいる人間にをも危害を加えようとするに決まっているじゃァないかい?その筆頭がこのお嬢様さ。人工精霊に身をやつした僕が表に出て防いだ暴漢だけでも六組はいた』」
人工精霊の魔術は禁忌のはずだ、とアルウィンは頭の片隅で分析した。
「『それに君ぃ、僕が覚醒したのだって、陽の華[こいつ]が間近で爆発したからだぜ?女性の胸元にそんな熱ぅい視線を投げかける前に、僕に感謝して欲しいね』」
ソファ脇のチェストに置かれていた小瓶を煽るようにちゃぷんと揺られて、アルウィンは体の脇でぐっと拳を握りしめた。言葉での煽りも正論で、アルウィンは押し黙るほかなかった。
「『君が何者かだなんてとっくに知ってるさ。なにせずうっと見てきたのだから。君もなんとなく分かってるんだろう?自己紹介なんて今更必要ないと思うけど、』」
〈それ〉はペンダントの光る胸に手を当ててすっとソファから立ち上がった。道化師の仮面のような歪んだ笑みが深まる。
「『──我はアークレリアの英雄が一柱。アインヴェルヒ・ロキ・アウステル。アウステル家の始祖にしてアークレリア随一の、真-源式学師(Grand-Element formulan)。
ああ……ここでは錬金術師と伝わっているね』」
男はおどけたように首を傾げた。
「『是非、ロキと呼んでくれたまえ』」
「………ッ、…?」
ロキはアルウィンが自分の言葉を噛み砕いている間、研究室の棚をじっくり眺めているようだった。ロキが全ての棚の配列を把握し終わって、錬成できる魔法式を一つ完成させたところで、アルウィンはやっと乾いた喉から言葉を吐き出した。
「…お、…お嬢様がそんな目に…それは、感謝いたします……。…しかし、私は正直驚きのあまり、混乱している。〈古代アークレリアのロキ〉。本当に、アウステル始祖であるあのロキ殿なのですか……?」
ロキはアルウィンのほうを振り向いて、ムッとしたように顔を歪めた。
「『ああそうとも。私以外に誰がいる?…あの時、間近で陽の華が咲いた時。本当ならこの少女は硝子の破片と衝撃で、目の光を失っていた。のみならず、僕の妻に似たこの愛らしい顔が焼けただれていたかもしれないんだ。君の監督不行き届きのせいでね。……君が僕たちの子孫(こども)で、なおかつエルフの血が濃くなければどうなったか分からなかったよ?』」
そうアルウィンを睨んだロキの目は責めるように鋭く光っていた。その迫力に顔を青ざめさせたアルウィンを眺めたロキは小さく息を吐いて、胸元のペンダントをトントンと指した。
「『コレ(・・) 、先の領主が御守りとしていつも身につけさせておいて良かったねぇ。始祖より続く家宝の恩恵だって、泣いて喜んでなかったっけか。……そんなシロモノに細工して、自分の魂を人工精霊として封印できるのは誰だい?それはもちろん、僕しかいないだろう」
アルウィンは、ただでさえ禁忌である人工精霊の魔術を術者自身にかける事の出来る技術を、現代に見つけることはできなかった。
「『──あぁそれと、さっきから色々画策しているようだけど。僕には君たちを害するなんて心はさらさら無いし、……もしそうだとしても、何千年も粛々と受け継がれてきたアウステル家の家宝に手が出せるとでも思っているのかい?魔力的にも、…財産的にも。』」
ロキは脅すような言い回しでアルウィンを牽制した。
「確かに、私が注意を怠ったばかりに…お嬢様にも申し訳ありません。研究のことばかりで、危険な目に合わせてしまいました」
アルウィンは偉大な始祖の前に意気消沈し、深く頭を下げた。
「わかりました。ロキ殿、貴方を信用します。貴方がそのペンダントに宿り、アウステルの子孫を守られて来た。何よりこうしてお嬢様を何度も守ってくれた。私にはできなかったこと…。感謝、致します……。」
ロキは、アルウィンが何より少女を守れなかった自分を責めている背中に憂いを帯びた視線を投げてから、静かに頭を上げるよう促した。
アルウィンは少女に宿る始祖・ロキの底の見えない目を見つめる。
「それで、貴方はこの私に何を望まれるのですか?やはり先程の…、太陽の黒き雫が目的なのですか?」
アルウィンは、にんまりと細まったロキの瞳の中に、神に乞う物乞いのような表情をした自分が映っているのを見た。
「『分かればいいんだ、愛しい子。……目的、そうだね。僕はねアルウィン。君の心を傷つけた輩が許せないのさ。この娘を害そうとした連中も。──あいつらはまあ、僕が始末してやったがね?』」
その始末、が一歩間違えれば自分にも執行されていたことに背筋が泡立った。ロキは構わず話を続ける。
「『妻が遠くへ旅立ってしまった少し後、ろくでもない理由で戦争が起こった。僕にほど近い血筋のこどもたちが犠牲になった……だから奴らを滅ぼした。
君にはそれと同じことをしてもらいたいんだ。このアウステル嬢を守るためにも、君自身の雪辱を果たすためにも。つまり復讐ってやつだ』」
それは、つまり都市を壊滅させる殲滅兵器の再現を意味していた。
アルウィンは額に冷や汗が流れるのを感じた。
「『…あとそれと、君にはちょっとした約束をしてもらいたくてね』」
ロキは艶やかな唇に人差し指を当て、そっと微笑む。それは絵画のように美しく、同時に、何の感情も読み取れない無機物の彫像のように思えた。
「……私の、復讐……」
アルウィンの脳裏に過去の記憶がよぎる。それは希望に満ちた穏やかな日々の中で、思い出しまいとしてもどうしても影を落とす存在だった。
『──お前はどうして生まれた?
──アイツがいるとなんかさぁ……
──呪われた子。
──ここにいちゃいけないのよ。
──あなたには心がないの!?
──追え!遺跡に逃げ込んだぞ!
──全て、お前の所為だ!!』
アルウィンはその声を振り払うように首を振る。それでも、どろどろとした黒い靄が頭から離れることはなかった。
しかしアルウィンには、その靄の間からでも差し込む太陽の光が見えていた。
「……私のは、私のはどうだっていい!でも──お嬢様を、この世の悪から守る為というなら。私は何だってしよう!」
アルウィンはその目に覚悟を宿らせて、きっとロキの瞳を見据えた。乾いた喉をごくり、と鳴らす。
「どんな、約束でしょう……?」
「『なあに、簡単なことさ。
──“彼(・)女(・)の(・)想(・)い(・)に、決(・)し(・)て(・)応(・)え(・)な(・)い(・)で(・)” ──くれるかな』」
「ッ──!!!!」
アルウィンにはその言葉だけが、走馬灯のようにゆっくりと迫ってくるように感じていた。
実に軽薄に、何でもないことのように告げられたその事実は、アルウィンが無意識に考えまいとして頭の隅に封じ込めていたそんな真実は、アルウィンの頭を真っ白にさせるには十分な衝撃であった。
そんなアルウィンの心中を知ってか知らずか、ロキは次々と畳みかける。
「『君は彼女が子供の時から彼女を見てきただろう?それこそ妹のように可愛がってきたのも知っている。
残念なことに、この子は箱入り娘故、近くにいる顔のいい男性に憧れを持つしかなかったようだ。僕のこどもたちでも、どこぞの異種族と一緒になるのはいた。だがね、それは相手が他人だったからだ。僕は僕のこどもたち、しかもどちらも僕らの血が濃い二人が、愚かなる異種族愛なんかによって時間を浪費するなんてことは──実に非効率的だ』」
ロキは苛ついているようだった。早くなる口調に出始めた茨のような棘が、アルウィンの心をちくりと刺す。
纏まらない思考の中で、度々漏れ聞こえる相手の言葉は彼女の心と人格を否定するものばかりだった。
その時アルウィンは唐突に思い出す──彼[あれ]は、古に生きた罪のない命を何万と奪った殺戮者なのだ、と。こどもたちと呼んではいるが、その個人の人格はどうでもよく、自分の血を永く存続させるためだけの道具だと見られている、ということに気がついてしまった。
アルウィンはロキに裏切られたような心地がして、絶望に顔を歪めてロキを仰ぐ。
「『……なんだい、その顔は。何か不満でも?』」
そう言った彼のとげとげしい視線は、いつか自分を虐げた連中とよく似ていた。
アルウィンは混乱した頭を冷やすため、しばらくの沈黙の中で考え込んだ。壁にかけられた古代文明の遺物である時知らせの針の音と、速幅の違う二つの呼吸音だけが埃のかぶった部屋に積もっていく。ロキはそんなアルウィンの様子を、ただじっと見つめているだけだった。
「………。」
時知らせの針が二週半ほどしてから、アルウィンは大きく息を吸い込み、それを吐き出した。熟考の末、余分な思考の残りかすを頭から追い出すように。
そしてアルウィンはそっと口を開いた。
「……どうやら貴方のペースに取り込まれていたようだ。貴方は私の想い、いや、お嬢様の想いまでも縛り付けようとしている。……貴方こそ分かっているはずだ。人の想いはそう簡単には拭い去れるものではないと。だからこそ異種族で結ばれた者たちが多くいたことを。」
ロキは未だ表情を石膏のように変えることなく、アルウィンを見すえている。
「貴方はそれをあろうことか、消し去ってしまった。どうして?何を恐れていたのですか?一人残された悠久の時が残酷だったからですか?」
そこでアルウィンが言い終えたことで、ロキはやっと片眉をぴくりと跳ね上げてから、失望したようにアルウィンを見下した。
「『……君にまとわりつくこの少女と距離を置くなんて、顔のまわりを飛ぶ蝿を払うくらい簡単なことだと思ったのにねえ。もしかして君も、このお嬢様に心奪われてるだなんて愚かなことを言うのかい?』」
「………。」
アルウィンは何も答えることなく、ロキをじっと見据える。と、ロキはその細い目にすうと鋭く凶悪な光を宿した。
「『──ァあ!!なんて嘆かわしい。貴様は私のような知恵ある先人たちが残した文化を、混血忌避たる風潮を何だと!?蛮弱たる人間共の自尊心を満たすためだけのものだと思うたか?』」
ロキは今までの底の見えない仮面を剥がし、激昂したように初めて見せる感情を噴出させた。
「『──五百年だぞ!!!始祖たる私が重々と、愛する者が旅立ってしまった絶望を抱えたから言っているんだ!!ねえアルウィン、君は、たった一輪の花の蜜の味を知るためにその後の永い人生を空腹で過ごすつもりか!!?
……この娘だって、幼い頃から素直に異種族に嫌悪感を植え付けていればよかったものを…』」
ロキは地の底に沈んだような目を地面に落とし、呆れたように頭を振った。アルウィンはその時やっと、底が見えないのは既に底に沈んでいたからなのだと悟った。そのさ迷う死者のような目がアルウィンを捉えたと同時に、ロキは喉に詰まったようなどもりをした。
「『何故って、君、だってね、奴らは僕と違って知らなかったんだ。絶望の味を。だって僕がその時を止めたのだから。人も、亜人も、善人も悪人も子供も大人も男も女も関係なく、その時を幸福なまま終わらせるなんて、君、素晴らしく寛容で慈悲深く美しいことだと思わないか?』」
ロキは狂った舞台の道化のように腕を広げる。が、その顔はこれ以上ない悲痛に歪んでいた。
「『…僕は、たった独り。彼女の元に逝けたなら、どんなによかったか!!』」
そう叫んだ後、ロキは肩で息をして押し黙った。
アルウィンは、ロキの放った言葉の全てを理解し、噛みしめる。最愛の者への愛に押しつぶされた哀れな男からは目を伏せて、独り言のように語り出した。
「──お嬢様と出会えて私は本当に幸せです。冷たい過去から、暖かい陽だまりに連れ出してくれました。私は今この時を心に刻んで生きている。泣いたり、怒ったり、笑ったり。そんな一日、一瞬がまるで永遠の時であるかのように…。
確かに、いつかは私にも別れの時がやって来る。それでも、目を閉じればこの永遠の時間の揺り籠が私を支えてくれるはず。どんな幸せも消えてしまったら、終わりなんです。死んでしまえば、お嬢様のことを思い出すこともできないから……っ」
アルウィンは、いつの間にかはらはらと零れる涙のぬくもりに瞼をゆっくりと閉じた。蔑まれても殴られてもついぞ流れることのなかったこの涙は、ロキという独りの男に感化されたからだろうか。
ずっと先の未来を見てしまったかのような。それでも自分はこのまま生きて行くことに、何ら後悔はしないだろうという確信が、アルウィンの心に確かに芽吹いていた。
ロキは、どうしても己の子孫(こども)であるアルウィンの涙を見て、うろ、と視線をさまよわせた。罰の悪そうに唇を噛んで、諦めたように肩を脱力させる。
「『…泣くのかい、君。……ああ全く、本当に困ったこどもたちだ。妻が最期に呪縛(たのん)だ通り。……それでも、僕の経験談は微力ながらその覚悟に花を添えたようだね…』」
ロキはもう、感情の見えない石像でも、己の美学を貫き人々を抹殺した殺戮者でも、妻を失い失意に狂った哀れな男でもなかった。そこには、ただ、小さな愛息子に泣きつかれて困り果てた微笑みを浮かべる父親がいるだけで、アルウィンはそれにまた涙を零した。
ロキは父親の最後の意地で、ぐっと眉間に皺をよせ、始祖としての精一杯の威厳でもってアルウィンの生き様を鋭く見定めた。
「『……君はどうやら僕とは違うようだ──絶望に墜ちた後、闇に溺れるのではなく、もはや決して届かぬ星を野原に座って愛でることのできる者──。
それでも僕は、僕の正しいことをしたという意見は変えないよ。いや、変えられない。だからこそ──』」
カレはついと背後の棚を振り返り、なれた手つきで小瓶を二つ手に取ると、傍にあった陽の華のガラス瓶と共に空中で調合を始めた。
「『──僕は、君が悠久の時に心挫けたと感じたら、何時でも君の前に現れて、華の種を手渡そう。全てを終わらせるための、大きな大きな華の種──“黒き太陽の雫”を。』」
ランプ明かりに照らされて、決して混ざり合わないはずの物質たちが、指揮者のような繊細な指の動きに目まぐるしく色を変え、一つに混ざり合っていく。そして押し込めるような手の動きに合わせて小さく凝縮していき──最後に残ったそれはまるで、小さな種のようだった。
「『……それまでは、この始まりの華が君の覚悟を示してくれるだろう。これは幸福であり、絶望であり、契約(のろい)であり、そして君の覚悟そのものだ──Sigel』」
その小さな種に男が短い節を唱えると、ポウと白い光が宿った。それが太陽の光だと青年が知覚し、その一歩を踏み出す前に──種から黒い光が稲妻のように上に伸び、一瞬のうちにそれは花の姿を形作った。
花弁は漆黒かと思えば、それは波のように様々な色が黒の中にたゆたい、その上に針の先ほどに小さな白い光たちが瞬いている。夜空の悲しみと喜びを映す、その黒き薔薇を青年はそっと手に取った。
ロキは不器用に口角を上げ微笑んだ。
「『瓶にでも入れて大事にとっておくといい。君が死ぬまで決して枯れないから。それじゃ──幸運を』」
君が薔薇を唖然として眺めている間に、少女の身体に宿ったカレはゆっくりと後退していき、この部屋に似つかわしくないソファ──すなわち少女お気に入りの定位置まで来ると、パチンと指を鳴らした。ペンダントの光がふつりと消え、同時に少女の身体はソファに崩れ落ちる。……青年がこわごわと近づきそっと確認すると、少女はただ、すやすやと健やかな寝息をたてていた。